【美人顔写真あり】渡辺久信と嫁・荒木真木子の子供は娘が2人! | 芸能人の嫁特集!

【美人顔写真あり】渡辺久信と嫁・荒木真木子の子供は娘が2人!

「ナベキュー」の愛称で親しまれ、1980年代、西武ライオンズの黄金時代を投手の柱として支えた渡辺久信さん。

イケメンとしても知られている渡辺久信さんのお嫁さんはどのような方なのでしょうか?

渡辺久信さんの華々しい経歴を追って調べていこうと思います。

渡辺久信の嫁は荒木真木子

渡辺久信さんは、1989年12月10日に荒木真木子さんと結婚しました。真木子さんは非常に美しい方で、1990年9月6日に放送された「直球の美学」に出演した際の彼女の姿が印象的です。

この番組で、真木子さんは渡辺久信さんについて以下のようにコメントしています。

「彼はヒットをよく打ちますが、中々タイムリーに繋がらないことがあります。それは結婚して家庭を支えなければならないという責任感から、より粘り強くなったのではないかと思います。」

また、25歳の頃の渡辺久信さんを紹介する選手名鑑には、「真木子夫人25歳」と記載されていますので、真木子さんも同じ年齢です。さらに、当時の選手名鑑によると、渡辺さんの月のお小遣いは25万円とされており、これはサラリーマンの月給に匹敵する額です。

結婚式&披露宴

こちらは、結婚式の際の写真です。

奥さん、キレイですよね!

 

渡辺久信と嫁・荒木真木子の子供は娘2人

渡辺久信さんには、夫人と二人の娘がいます。次女の花奈さんは、2014年7月16日付の日刊スポーツの記事で、成蹊高校の3年生として野球部のマネージャーを務めていることが報じられました。

この試合では、花奈さんは選手たちと一緒に戦う姿を見せたくて、試合中は一度もベンチに座らずスコアをつけ続けました。

結果として、チームは初戦で4年ぶりの勝利を収めましたが、次の試合で敗れ涙を流しました。試合後には「野球をやって本当によかった」と語っています。

さらに、2021年6月17日付の文化放送の記事によると、花奈さんは2020年に結婚したとのことです。結婚の際、花奈さんの結婚相手が渡辺久信さんのもとに挨拶に訪れた際には、緊張のあまりお土産を持つ手が震えてしまったそうです。

結婚の挨拶という緊張の瞬間に、特に渡辺久信さんのような著名な方の前では、なおさら緊張するものです。とはいえ、渡辺さんは温かく迎え入れ、心から歓迎したとされています。

 

渡辺久信について

渡辺久信さんは1965年、群馬県出身。

中学生の頃から140km/hの速球を投げられる選手として、多くの強豪校から注目されていたそうです。

実際、当時群馬県屈指の強豪校が受け入れ体制を整え、あとは渡辺久信さんが合格するのみとなっていたそうですが、勉強嫌いだったため真面目に受験することを断念し、工業系の高校に進むことになったそうです。

学生時代の渡辺久信さんの写真を見ると、剃り込みが入っていると思われるリーゼント姿。

明らかにヤンキーですよね。

西武の黄金期、ともに戦った工藤公康さんが、時効だからといってこのようなコメントを残しています。

「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて・・・」

規格外の身体能力だったことを述べているのですが、中学生の頃から喫煙していたなんて、もしあの頃にバレていたら、プロ野球選手としての渡辺久信さんはいなかったかもしれませんね。

プロ野球

本命視されていた高校3年の夏には惜しくも決勝で敗れてしまい、甲子園に行ったのは1年生の時だけだったという渡辺久信さん。

それでも、超高校級投手であることを買われ、1983年のドラフト会議では本命を抽選で逃した「はずれ1位」ながら、西武ライオンズにドラフト1位で指名されます。

1年目から1軍に定着し、3年目には最多勝、最多奪三振の2冠を取るほどの選手に成長していきました。

一方、プライベートではブランド物のスーツを身にまとい、いかにもバブルの申し子といった自由奔放ぶりを見せ、チームメイトであった工藤公康さんや清原和博さんらと共に「新人類」と称されました。

「新人類」という言葉は、当時の流行語にもなりましたね。

入団当初は選手寮でいろいろと管理されるのがイヤだったという渡辺久信さん。

「管理野球」で知られる当時の監督の広岡達朗さんについても、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったくらいに辟易していたといいます。

ですが、その一方で「きちんと管理する人がいてくれたからこそ、あの頃大きく道を外すことなくやってこれた」と、広岡達朗さんに出会えたことを感謝しているそうです。

「(親の)意見と冷酒は後から効く」と言うことわざのように、渡辺久信さんの心にも後になってしっかり効いてきたようですね。

 

薄毛

渡辺久信さんは、そのルックスもよかったことから、イケメン投手として女性からの人気もすごかったらしいです。

ですが、1991年頃から、徐々に頭髪が薄くなり、次第に女性ファンが離れていったといわれています。

監督を務めている頃は、40代にしてもう立派な薄毛さんの仲間入りをしていましたね。

野球選手は常に帽子やヘルメットをかぶっていますし、若い頃から髪にパーマを当てていたらしきヘアスタイルや、喫煙に大酒といった髪の毛に良くないことばかりやっていては、髪が薄くなるのも当然かな、とは思いますが。

昔のイケメンぶりがあまり見られなくなったのは、さみしい感じがします。

移籍~台湾野球~監督

1997年にはリーグ戦で勝ち星を上げられず、その年のシーズンオフに西武ライオンズで戦力外通告を受けた渡辺久信さん。

翌年には野村克也さん率いるヤクルトスワローズに移籍します。

その年でのキャンプで、毎日、夕食後に野村監督がミーティングを開き、「(野球に)こんなにも理論があるんだな」と驚いたそうです。

「投手とは何をするものか」という哲学的なことから、カウントごとの投手心理、打者心理…。

自身の野球理論を、ホワイトボードに板書していき、選手はそれを必死にノートに写すと、まるで学校の授業のようなことをやっていたというのです。

これまで、ずば抜けた身体能力で野球をやってきていた渡辺久信さんには非常にセンセーショナルな出来事だったようで、ヤクルトスワローズでの経験が今後指導者として活躍する礎となったそうです。

ヤクルトスワローズも戦力外になった渡辺久信さんは、現役引退を決意し、次の人生として解説者としての契約もしていました。

ですが、西武ライオンズで同僚だった郭泰源さんが橋渡しをしてくれ、兄貴分でもある東尾修さんの強い後押しもあり、台湾の球団で投手コーチを務めることになったのです。

球団の資金難で通訳もつけられないような状況で、コーチするなんて無理だということで、実際に投手としてマウンドに立ちながら、実践で指導する方法をとったそうです。

日本流の投球術は台湾選手相手に期待以上に通用し、最初の年はコーチなのに最多勝になりました。

また、ただ野球をしに来たという感じはどうにもイヤだったという渡辺久信さんは、自分から率先して台湾という国に馴染んでいこうとしました。

言葉の壁も自分で家庭教師を雇って、1年で日常の会話には困らなくなったそうです。

そうした大きな経験を経た渡辺久信さんは、2001年に現役を引退、解説者などを経て、2004年から西武ライオンズのスタッフ入り。

2008年には1軍の監督となり、その年に日本一になります。

その後、何年かチームを率いていきますが、思うような成績を上げられず、2013年に監督を辞任。

2018年現在は西武ライオンズのシニアディレクター兼編成部長として、次なる黄金時代を作るべく奔走しているそうです。

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