大学野球で活躍し、近鉄バファローズ、読売巨人軍、大洋ホエールズからドラフト1位指名を受け、抽選で1986年に近鉄バファローズに入団し、新人王や2年目に最多勝を獲得するなど、球界を代表する左腕投手だった阿波野秀幸。
引退後も野球解説者やコーチとして野球で仕事をしていましたが、阿波野秀幸の嫁や家族はどんな人か、調べてみました。
目次
阿波野秀幸が嫁と結婚!
阿波野投手の結婚や嫁のニュースは全くと言っていいほどありません。
当時はインターネットもなかったですし、奥様も一般の方なのかもしれません。
阿波野秀幸の娘や家族について
1989年10月21日の日刊スポーツに男の子が生まれたというニュースがありました。
奥様の名前も正美さんだとわかりました。
1989年生まれということは長男は今28歳です。
2007年8月11日に100日ぶりに勝利した時のニュースに
ウグイス嬢の投手交代を告げる涼やかな声が、3万大観衆を飲み込んだスタンドに流れる「ピッチャー阿波野」。
スタンドが沸いた。温かい拍手が巻き起こる。
5月3日のロッテ戦を最後に左ヒジ痛でファンの前から姿を消していた阿波野の、実に3ヶ月ぶりのマウンドだった。
正美夫人と一人息子の由真ちゃんが見守る中での復活劇。
阿波野はチームのV獲りへの全力投球を誓った。
とありますから、息子さんが一人いて由真くんという名前のようです。
この復活劇の試合観戦の時は由真くんは18歳です。
そして長男の由真くんも高校球児だったようです。
近鉄、巨人、横浜で通算75勝を挙げた阿波野秀幸氏(評論家)の長男・由真は、9―16で無念の8回コールド負け。
父がスタンドで見守る中で9番・二塁で出場。6回に三塁前への犠打を決めたが、無安打に終わって「グラウンドコンディションが悪く守備でリズムに乗れず、それが打撃に影響してしまいました」と悔しそうだった。
あいにく高校の名前はわかりませんが、強豪校ひしめく神奈川県の中では弱小校と言われていますから、もしかするとお父さん同様、県立高校なのかもしれません。
阿波野秀幸はトレンディエース
阿波野秀幸は現役時代、西崎幸広(元日本ハム)と共に「トレンディエース」と呼ばれた。
すらりとした体形に甘いマスク。
野球の実力も確かだったので、女性ファンに追いかけられる存在だった。
阿波野秀幸は「裏街道」の投手と呼ばれています。
「高校時代は甲子園に出場できなかった。大学は非東京6大学(東都)リーグで、プロ野球はパ・リーグ」
だから「裏街道」と呼ばれているようです。
高校は進学校で甲子園とは無縁の県立桜丘高校、そして亜細亜大学で頭角を表し、近鉄バファローズに進むことになります。
伝説の10.19
本人の阿波野秀幸さんも人生最大の挫折と言っている伝説の試合です。
1988年の「10,19」です。
川崎球場でのダブルヘッダー、2試合勝つとリーグ優勝という試合に僕が登板。
1試合目勝利し2試合目。
勝っていたのに僕が同点ホームランを打たれて、結局引き分け。
優勝は出来ませんでした。
ホームランを打たれた時、キャッチャーのサインは僕の一番得意だったストレート。
僕の球を信じて出してくれたサインに、僕は首をふり、変化球を投げてしまったんです。
僕はあの試合で、一球の重み、一球の大切さを知りました。
その経験があったからこそ、翌年リーグ優勝出来たんだと思います。
その優勝を決めた試合、最後のバッターには全球ストレート。
その時キャッチャーからのサインはなし。
「もう解ってるだろう」お互いそんな気持ちでプレイしていました。
近鉄時代は絶対のエース。
そんな阿波野投手がさらに有名になって、悲劇のヒーローとして伝説のピッチャーになるのは、この試合があったからと言っても過言ではありません。
ボークのルールの変更が阿波野秀幸の選手生命を短くした
4年目の1990年は、残念な思い出があります。
この年にボークの判定が厳しくなりました。
自分で言うのもなんですが、私の牽制(けんせい)は客観的に見て、ボークかそうでないか、非常にまぎらわしいものだったと思います。
亜大時代に「武器の一つ」と誇れるまで、磨き上げたものでした。
4月15日のロッテ戦(川崎)で、プロに入って初めてのボークを宣告されました。
同22日の西武戦(西武球場=現西武プリンスドーム)では一塁と三塁のベースコーチが一斉に「ボークだ! 審判、よく見ろ!!」と叫びました。
審判団の説明は「投球動作の変更」とだけ。
それ以降、関東での試合は特に神経質になりました。
意地になって一度も牽制しない試合もありましたが、そうとわかれば相手は盗塁を仕掛けてきます。
シーズン中にクイックモーションの練習を多くしたところ、左肘の靭帯(じんたい)を損傷してしまいました。
それまでは左腕をしならせる柔らかいフォームだったのに、明らかに投げ方が変わりましたね。
140キロ台後半をマークしていた直球の球速は5キロほど落ち、10勝(11敗1セーブ)がやっとでした。
この年は野茂英雄が入団し、投手のタイトルを総なめ。
翌91年は野茂に負けまいと春先から飛ばしすぎて、5月に痛みで投げられなくなりました。
大学時代から磨いていたという牽制球がルールの変更によって、フォームを崩し、肩を壊して、選手生命を縮めてしまうとは、悲しいものです。
スポーツでルール変更はよくあることですが、それによって勝てなくなるとか、体を壊してしまうとかプロアスリートは大変です。
阿波野秀幸は現在どうしてる?
解説者やコーチをしていた阿波野秀幸さんは現在は背番号101番で読売ジャイアンツの3軍のピッチングコーチでした。
神奈川県の強豪校の中で東海大相模から推薦を受けながらも、文武両道を目指して、野球では「打倒私学」の反骨精神でやってきた阿波野秀幸さんですから、甲子園や神宮を沸かして名門高校や六大学からドラフトで入ってきた選手たちでなく、3軍の育成というのは合っているのかもしれません。
3軍から2軍そして1軍というプレイヤーがこれからのジャイアンツにはたくさん出てくるかもしれません。
阿波野秀幸さんの奥様、息子さん、そして自身の悲劇の「裏街道」の野球人生について紹介しました。
かつてはトレンディエースと言われたこともありますが、どちらかというと華やかな表舞台よりは、力はあるけど、裏方が似合いそうな阿波野秀幸さん。
ご家族も表には出したりしませんし、控えめなところがあるのかもしれません。