渡辺久信の嫁は真木子?娘は?若い頃はヤンキーで現在ハゲ始めてる?

「ナベキュー」の愛称で親しまれ、1980年代、西武ライオンズの黄金時代を投手の柱として支えた渡辺久信さん。

イケメンとしても知られている渡辺久信さんのお嫁さんはどのような方なのでしょうか?

渡辺久信さんの華々しい経歴を追って調べていこうと思います。

本人はずいぶん頭がさみしくなっていますが・・・

渡辺久信について

渡辺久信さんは1965年、群馬県出身。

中学生の頃から140km/hの速球を投げられる選手として、多くの強豪校から注目されていたそうです。

実際、当時群馬県屈指の強豪校が受け入れ体制を整え、あとは渡辺久信さんが合格するのみとなっていたそうですが、勉強嫌いだったため真面目に受験することを断念し、工業系の高校に進むことになったそうです。

学生時代の渡辺久信さんの写真を見ると、剃り込みが入っていると思われるリーゼント姿。

明らかにヤンキーですよね。

西武の黄金期、ともに戦った工藤公康さんが、時効だからといってこのようなコメントを残しています。

「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて・・・」

規格外の身体能力だったことを述べているのですが、中学生の頃から喫煙していたなんて、もしあの頃にバレていたら、プロ野球選手としての渡辺久信さんはいなかったかもしれませんね。

 

プロ野球

本命視されていた高校3年の夏には惜しくも決勝で敗れてしまい、甲子園に行ったのは1年生の時だけだったという渡辺久信さん。

それでも、超高校級投手であることを買われ、1983年のドラフト会議では本命を抽選で逃した「はずれ1位」ながら、西武ライオンズにドラフト1位で指名されます。

1年目から1軍に定着し、3年目には最多勝、最多奪三振の2冠を取るほどの選手に成長していきました。

一方、プライベートではブランド物のスーツを身にまとい、いかにもバブルの申し子といった自由奔放ぶりを見せ、チームメイトであった工藤公康さんや清原和博さんらと共に「新人類」と称されました。

「新人類」という言葉は、当時の流行語にもなりましたね。

入団当初は選手寮でいろいろと管理されるのがイヤだったという渡辺久信さん。

「管理野球」で知られる当時の監督の広岡達朗さんについても、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったくらいに辟易していたといいます。

ですが、その一方で「きちんと管理する人がいてくれたからこそ、あの頃大きく道を外すことなくやってこれた」と、広岡達朗さんに出会えたことを感謝しているそうです。

「(親の)意見と冷酒は後から効く」と言うことわざのように、渡辺久信さんの心にも後になってしっかり効いてきたようですね。

 

薄毛

渡辺久信さんは、そのルックスもよかったことから、イケメン投手として女性からの人気もすごかったらしいです。

ですが、1991年頃から、徐々に頭髪が薄くなり、次第に女性ファンが離れていったといわれています。

監督を務めている頃は、40代にしてもう立派な薄毛さんの仲間入りをしていましたね。

野球選手は常に帽子やヘルメットをかぶっていますし、若い頃から髪にパーマを当てていたらしきヘアスタイルや、喫煙に大酒といった髪の毛に良くないことばかりやっていては、髪が薄くなるのも当然かな、とは思いますが。

昔のイケメンぶりがあまり見られなくなったのは、さみしい感じがします。

 

移籍~台湾野球~監督

1997年にはリーグ戦で勝ち星を上げられず、その年のシーズンオフに西武ライオンズで戦力外通告を受けた渡辺久信さん。

翌年には野村克也さん率いるヤクルトスワローズに移籍します。

その年でのキャンプで、毎日、夕食後に野村監督がミーティングを開き、「(野球に)こんなにも理論があるんだな」と驚いたそうです。

「投手とは何をするものか」という哲学的なことから、カウントごとの投手心理、打者心理…。

自身の野球理論を、ホワイトボードに板書していき、選手はそれを必死にノートに写すと、まるで学校の授業のようなことをやっていたというのです。

これまで、ずば抜けた身体能力で野球をやってきていた渡辺久信さんには非常にセンセーショナルな出来事だったようで、ヤクルトスワローズでの経験が今後指導者として活躍する礎となったそうです。

ヤクルトスワローズも戦力外になった渡辺久信さんは、現役引退を決意し、次の人生として解説者としての契約もしていました。

ですが、西武ライオンズで同僚だった郭泰源さんが橋渡しをしてくれ、兄貴分でもある東尾修さんの強い後押しもあり、台湾の球団で投手コーチを務めることになったのです。

球団の資金難で通訳もつけられないような状況で、コーチするなんて無理だということで、実際に投手としてマウンドに立ちながら、実践で指導する方法をとったそうです。

日本流の投球術は台湾選手相手に期待以上に通用し、最初の年はコーチなのに最多勝になりました。

また、ただ野球をしに来たという感じはどうにもイヤだったという渡辺久信さんは、自分から率先して台湾という国に馴染んでいこうとしました。

言葉の壁も自分で家庭教師を雇って、1年で日常の会話には困らなくなったそうです。

そうした大きな経験を経た渡辺久信さんは、2001年に現役を引退、解説者などを経て、2004年から西武ライオンズのスタッフ入り。

2008年には1軍の監督となり、その年に日本一になります。

その後、何年かチームを率いていきますが、思うような成績を上げられず、2013年に監督を辞任。

2018年現在は西武ライオンズのシニアディレクター兼編成部長として、次なる黄金時代を作るべく奔走しているそうです。

 

渡辺久信の嫁

公私ともに野球界に大きな足跡を残した渡辺久信さんは西武ライオンズに入団して6年ほどたった時に結婚したそうです。

「真木子」さんといわれるその女性は成城大学を出たお嬢様で、非常に美人だといわれています。

お子さんも娘さんがふたりいるそうなのですが、年齢やどのような方なのかまでは調べきれませんでした。

お嫁さんも娘さんたちも、その姿を見ることはできませんでしたが、渡辺久信さんが台湾に渡っても、その容姿が大きく変わっても(笑)、ずっとついていっているのですから、きっと素晴らしい方なのでしょうね。

かつてのイケメンと美女の遺伝子を受け継いでいますから、娘さんふたりもさぞかし美しいことと思われます。

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