青木雄二の嫁&息子まとめ。死因は?いくらだまされたの?

マンガ「ナニワ金融道」のヒットをきっかけに、お金にまつわる著作を多く生み出した青木雄二さん。

彼のお嫁さんやお子さんはどのような方なのか?青木雄二さんのエピソードを交えて紹介していこうと思います。

いかにも昭和の男といった、豪快、頑固、こだわりを持った人生だったようですよ。

 

青木雄二について

青木雄二さんは1945年京都府生まれ、岡山県で育ちます。

高校生時代は野球部に入部し、キャッチャーとして練習に励んでいたそうです。

高校を卒業後、就職をするのですが、就職先の学歴重視の方針に嫌気がさし、5年で退職してしまったそうです。

青木雄二さんが社会人になった頃は、年功序列や終身雇用が普通の世の中だったので、高卒であっても、そこそこの地位に行けたのではないでしょうか?

それを蹴ってまで仕事を辞めるなんて、よっぽど学歴偏重の体質が嫌だったのでしょうね。

 

漫画家

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会社を退職後、いろいろと仕事を変え、その日暮しをしていた青木雄二さん。

ふと、部屋で横になっていた時に「このままこれを続けていたらどうなってしまうのだろう?」と考えたそうです。

すると、なにかいてもたってもいられないようなゾッとするような気持ちにさせられたのです。

青木雄二さんは、何かやりたいことはないかと自問自答して、「絵を描くことだったらやってもいい」という結論を出したそうです。

自分の考えや思いを何かの形で表したいという気持ちが強くなっていったのだといわれています。

日中は肉体労働、夜は2時3時まで漫画を描くという生活をしていたのですが、全然苦ではなく、昼間の仕事をしているときも漫画をどう描いていこうかと、続きの作業が気になってしまうほど漫画にのめり込んでいったそうです。

そうして描き上げた作品「屋台」は小学館「ビッグコミック」の漫画賞で佳作を取り、賞金7万円を手にしたのです。

でも、青木雄二さんは賞を取ったことや、給料2か月分に相当する賞金をそんなに喜ぶことはなく、「40日もかけて描いたのに、たったの7万円か」と、漫画家になるのってきついものだという実感を覚えたのだそうです。

 

会社倒産

賞金だけでは当然生活することもできなかったので、「佳作になった原稿」をもってデザイン会社の面接を受けたら見事合格、3年ほど勤めたそうです。

その後、1975年にデザイン会社を立ち上げますが、取引先の支払いの延滞などにより次第に資金繰りが難しくなる一方、自らの信念で従業員の給料や自分からの支払いは滞らないようにした結果、1983年に会社を倒産させます。

38歳で500万円ほどの借金を抱えたにもかかわらず、独身だったことから、特にプレッシャーなどは感じることがなかったそうです。

細々と、社長時代につきあっていた取引先の仕事をひとりでこなしつつ、マルクスやドストエフスキーなどに触れ、自分の考え方の枠組みをさらに強くしていったそうです。

会社を倒産させた時の経験や、自分の考えをもとに漫画を描いては投稿するのですが、数年間掲載されることがなかったといわれます。

しかし1990年、ついに人生を大きく変える作品を生み出すことになるのです。

 

「ナニワ金融道」

1990年に45歳という遅咲きで漫画家デビューした青木雄二さん。

その作品が「ナニワ金融道」です。

消費者金融に勤める主人公と、借金にまつわる人間模様を描いたこの作品は、1996年まで連載され、大ヒットしました。

1992年の講談社漫画賞や、1998年の手塚治虫文化賞といった漫画賞を受賞しています。

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青木雄二さんは、漫画を描くときに独特のルールがあったそうです。

それは、緻密な書き込みを信条としており、スクリーントーンという、模様の入った画材を「手抜き」と称して極力使わないこと。

青木雄二さんの漫画を見ると、シンプルな絵柄だけれど、スーツの柄や建物などが細かいところまで手で描かれていることがわかります。

緻密な画のおかげで、青木雄二さんは「腱鞘炎とは切っても切れない関係になってしまったそうです。

 

詐欺

いくらだまされたのでしょうか?

1996年の「ナニワ金融道」連載終了後、一生暮らせるだけのお金を得たという青木雄二さんは、早々と引退して、悠々自適な生活を送ることを周りに宣言します。

講演会や本の執筆活動をして、楽しく暮らしているのかと思いきや、不動産詐欺にあって1億7千万円ものお金をだまし取られたというのです。

1億円以上のお金をだまし取られて、落胆してしまったかと思われたのですが、却って執筆意欲がわいてきたと、このころから執筆活動が活発になったようです。

 

青木雄二の嫁

青木雄二さんは超晩婚です。

30人以上の女性とお見合いをしてきたものの、自分の境遇などを包み隠さず赤裸々に話してしまうため、相手の女性から敬遠されてしまうのです。

漫画家として成功し、週間連載を続けていた時には、もう女性と出会うことなんかないのではないかと思うようになったそうです。

それでも運命の出会いというものはあるものです。

行きつけの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を読むのが、青木雄二さんの日課だったそうです。

ある時、喫茶店のママと話しているときに、知り合いの女性を紹介してもらった青木雄二さん。

北新地のお店のチーママをしているというその女性は、とても美しく、青木雄二さんは一目ぼれに近い感情を抱いたそうです。

誠意を見せるべく、彼女のお店に足しげく通い、お店の後には食事にも誘う。

週間連載をこなしつつそこまでやるのは、至難の技だったと、当時を振り返っています。

最初は容姿に惹かれていましたが、話すにつれてその人となりが自分に近いと感じ始めた青木雄二さん。

運命の女性はこの女性だと1か月かけて誠意を見せ続けた結果、1995年に50歳にして、20歳も年の離れた若代さんと結婚することができたのです。

思ったことをずけずけという青木雄二さんでしたが、「あんたは7人の侍の菊千代みたいな人やな」と自分の本心を見透かされたような言葉を若代さんから言われたとき、この女性と結婚して本当に良かったと思ったそうです。

甘い、ラブラブな状態だけが夫婦のあり方ではないのですね。

ケンカもしながら、お互いの心に段々と近づいていく。

これは愛がなければできないことでしょうね。

 

青木雄二の子供

50歳という高齢で結婚した青木雄二さんでしたが、ふたりは子供が欲しいという望みがあったそうです。

ですが、若代さんには持病があり、なかなか子供が授かりませんでした。

それでも、辛抱強く病気の治療と妊活に励んだ結果、子供を授かることができました。

青木雄二さんが55歳の時に生まれたその男の子は、小林旭さんが演じた「マイトガイ」のように強い男になってほしいと、「旭」君と名づけられました。

 

青木雄二の死

お子さんも生まれ、これからもっと精力的に活動していこうというときに、病魔が青木雄二さんを襲います。

ハイライトをこよなく愛し、数分で灰皿が吸い殻で山になるほどのヘビースモーカーだった青木雄二さん。

旭君が生まれてからは、タバコもやめ、大酒を飲む回数も減らしたといいます。

でも、2003年、旭君がまだ幼いうちに肺がんでこの世を去ってしまいました。

死因は肺がんだったのですね。

青木雄二さんがこの世を去って10年以上の年月が経っていますが、青木雄二さんの志を受け継いで、若代さんが社長である「青木雄二プロダクション」が設立され、青木雄二さんの薫陶を受けた作家たちが、作品を生み出しています。

息子の旭君も高校生の年齢になりました。

お父さんの望みである「マイトガイ」のような強くたくましい男になっているのでしょうか?

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