さとう宗幸の嫁や家族がいて孫もいるの?自宅場所が航空写真に?

大ヒット曲「青葉城恋唄」で知られる宮城県大崎市古川育ちのさとう宗幸さん(67)。
「宗さん」の愛称で多くの人々に親しまれ、シンガー・ソングライターとしてだけでなく、俳優、テレビ番組の司会者と、さまざまな分野で活躍しているようです。
2018年にはデビュー40周年を迎えるさとう宗幸さんについて紹介します。

さとう宗幸さんのデビュー秘話

地元の新聞社でのインタビューでさとう宗幸さんは以下のように話しています。
コンサートを企画してもなかなか人が集まらず、苦節の日々が続いたが、29歳の時に転機が訪れる。
ディスクジョッキーをしていたラジオ番組からヒット曲「青葉城恋唄」が生まれた。
NHK仙台放送局のラジオ番組「FMリクエストアワー」で、リスナーから寄せられた歌詞に僕が作曲するコーナーがありました。
そこへ、当時仙台に住んでいた星間船一(本名星捷一)さん=宮城県東松島市=から、「青葉城恋唄」の詩が寄せられました。
一読して、仙台の情景と切ない心情をつづった歌詞が心の琴線に触れました。一気に曲のイメージが膨らんで5分ほどでできました。
多くの人に愛される曲は、あっという間に出来上がることを実感しました。
ありがたいことに、その後の反響が大きく、曲が仙台市内で繰り返し流されました。
キングレコードのディレクターだった仙台市出身の赤間剛勝さんが気に入ってくれて、とんとん拍子で1978年5月にメジャーデビューが決まりました。
当初は曲を売り出す戦略として、ダークダックスとの競作でした。「なんとかして3万枚は売りたいね」。
仲間とこんな話をしていましたが、一気に火が付き、発売から約半年で100万枚を突破する大ヒットとなったのです。
当時はマスコミがこぞって「地方の時代」を言いだした時代で、その機運もヒットを後押ししたのでしょう。
その年の6月12日に宮城県沖地震が発生。「青葉城恋唄」は、復興ソングの意味合いも持つようになりました。

生活を変えた「青葉城恋唄」

 
日本レコード大賞新人賞を受賞したり、紅白歌合戦に初出場したりして、寝る間もないほど忙しく、東京と仙台を無我夢中で往復する日々でした。
当時、長女は幼稚園児でしたが、久しぶりに家に戻ると、ふすまを少し開けて、僕の顔を黙ってじっと見ていたこともありました。
自分の意思とは別に何か大きな力に動かされているようでした。
そんな時でも仙台を離れようという考えは浮かびませんでした。
僕が自然体で活動するには、仙台の家族と自然風土は欠かせなかったからです。
「青葉城恋唄」は今年7月から、JR仙台駅の新幹線ホームの発車メロディーにも使われ、仙台市の音楽家榊原光裕さんの編曲で仙台フィルハーモニー管弦楽団が演奏しています。
「青葉城恋唄」。それは僕がシンガーとして歩む道筋を付けてくれた大切な曲です。
大ヒットが生まれ、有名になってもさとう宗幸さんは故郷仙台を愛し、仙台を離れず、仙台に根付いているシンガー・ソングライターですね。

仙八先生出演の秘話

 
 1981年4月から、TBSのテレビドラマ「2年B組仙八先生」に教師・伊達仙八郎役で1年間出演しました。
32歳の時です。人気番組「3年B組金八先生」に連なる番組でプレッシャーがありました。
 最初の出演依頼は固辞したのですが、「さとう宗幸そのままで演じてほしい」というプロデューサーの言葉と熱意にほだされて引き受けました。
いざ、番組の収録が始まると、声が思うように出なかったり、NGの連続だったりして、半年ぐらいは顔面神経痛のように顔の筋肉がピリピリしていました。
番組の「生徒」の中には、実際の中学3年生が十数人いたので、初詣に仙台の榴岡天満宮でお守りをもらってあげました。
番組からは本木雅弘さんや薬丸裕英さん、布川敏和さん(3人は後にシブがき隊を結成)、三田寛子さんが芸能界で活躍するようになりました。
今でも生徒たちとの交流は続いています。
2009年には本木さんが幹事となって、生徒が一堂に集まって僕の還暦祝いを催してくれました。
その時、本木さんは主演した映画「おくりびと」(滝田洋二郎監督)が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、
多忙を極めていたのですが、当日は司会も務めてくれました。その誠意に胸を打たれました。
武田鉄矢さんが先生役の「金八先生」、さとう宗幸さんが先生役の「仙八先生」。
視聴者からみても名番組ですけど、
同窓会が開かれるくらい、
タレントさん達から見ても本当の学校と同じくらい重要なドラマなんですね。

さとう宗幸さんは結婚している?家族は?子どもは?

さとう宗幸さんの家族については、娘さんいるようです。
孫もいるという情報はありますが、具体的に何人子どもがいるとか、奥さんがどんな方かとかは情報がありませんでした。
イメージ的には家族を大事にしてそうですね。

さとう宗幸さんのプライベートは?

自宅については仙台市泉区という情報があります。
航空写真で撮られたということもありませんし、
自宅がどこかという情報も画像もありませんでした。
インターネット上では、性格が悪いのではないかと言われていますが
イメージが家族思い出、人に優しそうなイメージの有名人にはありそうなガセネタのようです。

東日本大震災を仙台で被災

震災発生時は、ミヤギテレビに向かう途中で、宮城野区内を自家用車で走っていました。
緊急地震速報がけたたましく鳴り、慌てて路肩に車を寄せた直後、
今までに体験したことのない激震に襲われました。
無我夢中で泉区の自宅に戻り、悪夢の中にいるかのような一夜を過ごしました。
翌12日早朝、新聞配達のバイクの音を聞いた時は、本当にホッとしました。あの音は生涯忘れないです。
そして、当たり前のようにあった日常の大切さが身に染みました。震災では友人や親戚が亡くなり、胸がつぶれる思いをしました。
 生きていてよかったです。

その後は被災地の復興支援に尽くしている

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3月22日に特別編成でミヤギテレビの「OH!バンデス」が再開されました。

世の中が混乱している時期でしたが、なるべく「日常」を取り戻すことを意識して出演しました。
番組では「青葉城恋唄」を歌いました。
僕の中では番組で最初に歌うのは、この曲と決めていて、何の迷いもなかったです。
歌っている最中は涙が込み上げてきました。番組終了後は「震災前の日常を思い出し、涙が出ました」など、テレビ局に電話やメールが殺到したそうです。
その年の3月下旬からは、避難所や仮設住宅などの訪問も始めましたが、被災者の思いが痛いほど伝わってきました。
それだけに安易に「頑張ってください」という言葉は、言えなかったです。
宮城県ゆかりの仲間のミュージシャンらでつくる「みやぎびっきの会」で、被災地の復興支援ソング「虹を架けよう」を作ったり、
NHKの復興支援ソング「花は咲く」にボーカリストとして参加したりもしました。今もチャリティーコンサートは続けています。
有名になっても、売れていても仙台を離れず、
仙台を愛し、仙台を想い、仙台の方々からも愛されるさとう宗幸さん。
東北の復興のためにこれからも地元で活躍されることでしょう。
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